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押し入れから出てきた手書きのコピー(10年くらい前のかな)

「君が代」法制化をわらう
     いまいげんじ

◆外国人が編曲

 ♪きみがあ、ようは・・・・
「ようは」って何の用やろ? などと思いながら歌った「君が代」。平屋の木造校舎で、紀元節だの天長節の式の日には女の先生のオルガンで斉唱。
 ♪さざれ、石の、いわほとなありて・・・・
 あ、これは「いわおこし」や、と思った。
 ♪こけの、むうすうまああで・・・・
 臼をまわすことやろか? わたしは百姓の子供であった。

 歌詞と節回しが噛み合わない「きみがよ」を編曲したのは外国人だったのだ。「君が代」の歌詞の由来は、一〇世紀はじめ、紀貫之、紀友則らが撰進した「古今和歌集」の賀歌(がのうた)、題知らず読人しらずの  
 わが君は千代に八千代にさざれ石の
 いわほとなりて苔のむすまで
という歌だ。

 古今集の少し後、十一世紀のはじめ頃の「和漢朗詠集」にも
 わがきみは千代に八千代にさざれ石の
 巌となりて苔のむすまで
と収録されているが、「君が代は」と、はじまる歌は十三世紀初頭に藤原定家や藤原家隆らが撰進した「新古今和歌集」のなかに四首ばかりあるが、いずれも千代に八千代と続かない普通の相手を祝う賀歌である。

 「わが君は千代に八千代に」が、何時、誰が、「君が代は・・・・」と変えたのかは明らかではないが、宮内庁所蔵の「和漢朗詠集」には、この歌が「きみがよは」となっているらしい。

 この歌は後世、あらゆる席で主賓の長寿を祝う賀歌としてうたわれ、昔、義経の愛人、静御前も鎌倉の頼朝の前に呼び出されて
 しずやしず しずのおだまきくりかえし
 むかしをいまになすよしもがな
と、義経追慕の想いを歌い舞う前に、まずこの賀歌を頼朝に捧げたと伝えられている。

 江戸初期、堺の僧が創めた隆達節を始め、浄るり、常磐津、長唄、祭礼歌、琵琶歌などに取り入れて唄われ、筆者の畏友、故宇野脩平氏(歴史学者)も、「昔、きみがよは遊君(あそびめ)が客のために唄ったり、乞食も門付に唄って歩いたんですよ」と語っていた。

 現在の「君が代」は一八六九(明治2)年、薩摩藩の大隊長(後の元帥)大山巌が、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中から歌詞を取り出して、それを横浜駐留のイギリスの軍楽隊長フェントンに作曲を依頼したのが最初である。
 大山巌がこの歌を選んだのは、自分の名前の「いわほ」が読み込まれいたからだとの説もあるが、その真疑はわからない。時代はまさに倒幕に成功した薩摩や長州閥の天下となった明治初年の話である。

 さて、フェントン作曲の「君が代」を一八七〇(明治3)年、薩摩、長州、土佐、三藩の調練式で、薩摩藩の軍楽隊が演奏。そして、日本海軍の儀礼曲となった。ところが、フェントンの洋風の作曲は、当時の日本人にはあまり評価されず、一八七六(明治9)年の天長節に海軍は演奏を中止。 一八八〇(明治13)年、海軍省は宮内省に、ふさわしい軍楽曲を作ってほしいと要請。宮内省では、傭い教師ドイツ人エッケルトが、いわゆる雅楽調をとりいれて新しく作曲、それが今の「君が代」である。

 しかし、これも歌詞の意味もよく分からない外国人の編曲なので、作曲家の中田喜直氏は、「・・・・『さざれ石』が、さざれ、と石に割れてしまい、歌詞の長さとメロディーの長さがつり合わず、無理に引き伸ばしているのです・・・・」(一)と語っているし、

 永六輔氏は、「『君が代』のメロディーは、中国から朝鮮を経由して入ってきた雅楽です。それに、『君が代』の五七五七七を、むりやりにはめ込んだ。だから『きいみいがあ』と全部母音で伸ばしている。あれは日本語じゃないですよ。・・・・母音で伸ばすのはパンソリ、朝鮮半島の歌い方なんです」(二)と語っている。

◆皇室の歌

 「君が代」は、はじめは軍楽曲として作られたもので、いつしかその歌詞の通りに「天皇賛歌」と転化、もちろん国歌ではない。その証拠に一八七八(明治11)年、宮内省が国歌を作ろうとしたが成らず、エッケルトが「君が代」の編曲をした二年後の、一八八二(明治15)年、文部省も音楽取調係に日本国歌の撰定を命じたが実現しなかった。(一)

 一八八九(明治22)年「大日本帝国憲法」が発布された。
「第一條 大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵すヘカラス」
という明治欽定憲法である。(欽定、君主の意志で制定)続いて翌年(明治23)「教育勅語」発布、更に翌年「小学校祝祭日大祭儀式規定」で、文部省から祝祭日の式典には、「君が代」を歌ってよろしいという通牒が出された。
 しかし、また「かしこきあたりの歌をむやみに歌ったり演奏してはならぬ」と宮内省から小学校が叱られたりしたという。

 一八九三(明治26)年発行の和綴じの文部省教科書「帝国読本」巻四には、「君が代」もじりの七五調の歌がある。
 「我が天皇の   御よはい
  萬代ふべき   いしがめの
  あそぶ小川の  さざれ石の
  いよよおひ立ち こけのむし
  千引きの岩の  岩が根を
  千代も八千代も かぎりなく
  いや栄えつつ  おわしませ
  天皇萬歳 萬々歳」
 こんな教科書で幼い頭に皇民教育を徹底的に叩き込まれ、式日には「教育勅語」「勅語奉答歌」「君が代」斉唱など、いつしか「君が代」が国歌のように思い込まされてきた。

 一九〇四(明治37)年九月三日付『大阪朝日新聞」の「天声人語」は書いている。
 「皇室の歌あり!!而して国家の歌無き乎」、ところが、後年「支那事変」の発端となった「盧溝橋事件」の一九三七(昭和12)年の尋常小学校修身書巻四では
  第二十三 国歌
 君が代は
 千代に八千代にさざれ石の
 いわおとなりて
 こけのむすまで
 ・・・・君が代は日本の国歌です。我が国の祝日やその他おめでたい日の儀式には、国民は君が代を歌って天皇陛下の御代萬歳をお祝い申し上げます。君が代の歌は、我が天皇陛下のお治めになるこの御代は千年も萬年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるようにという意味で、まことにおめでたい歌であります。
・・・・

 国歌などと法的にも定めたことのない「君が代」を恣意的に国歌と呼称した文部省。遂に軍部は対中国全面戦争の泥沼にのめり込み、太平洋戦争に突入!一九四五(昭和20)年八月十五日、敗戦降伏! 
 思えば戦争、戦争また戦争で百千万無数の人々を殺した「明治欽定憲法」時代の命脈は五十六年で尽きて、この国は生まれ変わって国民主権の平和憲法の世となったが、以来五十年!
 その間、一人の戦死者も出さず、一人の他国の人も殺すことなく、国民は平和な文化的生活を指向して歩んできた。
 しかるに、何を血迷ったか最近、突如として政府は「君が代・日の丸」の法制化を叫び出したのだ。
 それは、広島県教委が発した「君が代・日の丸」強制の職務命令で自殺に追い込まれた高校校長の死を悼むよりも、むしろそれを好機とばかり、法制化を唱え出したもので、本末転倒、軍国の亡霊にとり憑かれたかのようだ。
 いまや国際化時代の二十一世紀を前にして、十九世紀末ドイツ人編曲の天皇賛歌「君が代」をわざわざ法制化などとは、時代錯誤というよりナンセンス。小渕首相ら政府首脳の知能水準が疑わしい。

 新時代にふさわしい、よい歌曲ができたとしても、歌う歌わないは個人の自由であって、強制は思想、信条の自由を侵すものだ。

 なお、「日の丸」については別に論じたい。終わりに『婦人民主新聞』(99・3・15)「私のひとこと」の一部を抄録する。
 「・・・・戦後半世紀、・・・・あの奇妙な歌詞ひとつ変えられなかった私たちの不甲斐なさ! 天皇制イデオロギーの底深さ! 天皇の戦争責任不問が、国際的にも恥ずべき現象を温存していることに暗澹とする」(古川佳子)

  引用または参考文献
 古今和歌集 新古今和歌集 小学館
 和漢朗詠集         岩波書店
 (一)日の丸・君が代     地歴社
 (二)『論座』(99・3) 朝日新聞社

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いまいさんは、1912年大阪生まれ。小学校卒、成人して薬屋を開業中召集、
シベリア抑留を体験。『シベリアの歌』(三一書房)『赤紙兵隊記』(径書房)
『検定外ニホン史』(編集工房ノア)などの著書がある。山崎豊子の「不毛地帯」
を自分の作品の盗用だと告発したことは有名。
参考サイト
http://bit.ly/bMQi5N
http://bit.ly/b81uIN
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はじめまして。ツイッターの旅人です。大変和歌に造詣が深くて・・尊敬いたします。当サイトhttp://foodpia.geocites.jp/pta_method/CCP010.html にも記しましたが、日本人はあまり文言を気にしていません。そのように感じます。サイトは、苔に何するものですが。
また、もし、マスコミが声高に言うように新政権が極悪非道の輩によって運営されているなら、自由奔放にやらせておいて、悪行の限りを尽くさせ、露呈させ、国民を苦境に陥れ、それで、次の総選挙で政権交代するのが一番簡単です。「参院議員」が首相に名乗りを上げるのは、・・・素人目には受けますが、無理筋で「二歩」かもしれません。
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